イチローがいるからメジャーを目指しても駄目なのか


といえば別にそういうことではないと思うが。
No.1になることだけが夢をかなえることではなく、No.2になることやNo.3になること、あるいはNo.1265になることが
夢であってもいい。最強のメジャーリーガーになれないから野球をやってもしょうがないわけではなく、
単にクラスで一番とか部で一番を目指してそれを達成すればいいんだよって話もある。
世の中にはたしかにもっとも優れた奴が、金メダリスト級の奴が一人だけいるのかもしれんが、
銀メダリストがいたり銅メダリストがいたり、あるいは単なる町内の野球コーチレベルの人間もいてはじめて金メダリストがリスペクトされる
環境というのができあがってもいる。
金メダリストが偉いとしたらそいつは銀メダリストに勝てるから偉いわけで、銀メダリストは銅メダリストに勝てるわけで、という風に
延々とより下位の人々の存在があることによってそのような階級には価値が与えられているわけである。
この世に誰も野球をやる人間がいなかったとして、生まれてから死ぬまで野球の練習しまくってイチローになれたとして、
それが凄いことだとしてもその凄さは比較対象になるより下位のプレイヤーがいなければ、測れないのだ。
そういう意味では人が自分なりの限界を目指してがんばることはいいことだろう。
世の中に与えられた至高の目標を達成できなくとも、自分なりにそこに向かう自分の限界までがんばってみたならば、
そのことがたぶん何かの役に立っているのだと思う。大勢の人間が参加する野球コミュニティというものが盛り上がるための一要因としてそこに
貢献していることになるのだと思う。
だからたとえば、全日本代表になれなくても、県選抜どまりでも、大学の体育教師になってド素人の学生を前に県代表レベルのクロスの上げ方を
みせたりして学生をわくわくさせたりできることは、十分それで何かの役に立っている。そこでなにもたとえばジーコが出てきてクロスを上げなければ
いけないわけではないし、ペレがいるからサッカーをしても無駄なわけでもない。
そういう狭い世界でのNo.1になることを井の中の蛙と呼ぶのかもしれないが、井戸の外の大会でNo.1になることだけが意味のあることでは
ないわけだ。無限の母集団のなかにおいては個々人の存在意義など無に等しい。我々は自分の身の回りの世界という井戸の中に住まう蛙であるによって
その中に二人といない自分という自分の個性のよりどころを得ているのだと思う。世の中からみれば自分は平凡な存在だが、
自分の所属する有限で顔の見える組織の中ではそんな私でも組織の中には似たもののいない自分自身なのだということを実感することができる。