エゴイズムの悪とは、エゴイズムの隠蔽にあるんじゃないか


人間というのは、もともとエゴイストである。それは子供をみれば分かることで、子供は誰もがわがままである。
人間は社会化されることでわがままをいわなくなっていくだけであり、本質はエゴイズムでできている。
自分の欲求をみたすことが欲望なのであり、欲望をかなえることが幸福なのだとすれば、
人はエゴイズムを満たすことだけがその唯一の行動原理であるというわけである。他人の欲望を満たすことがエゴイズムでないということはできない。
他人の欲望を満たすことは他人の欲望を満たしたいという自分の欲望を満たすことなのであり、それもまたエゴイスティックな欲望の一形態にすぎない。
そう考えるなら、人間が利己的であることは仕方の無いことだと思う。
そう思ってみてみると、エゴイスティックに公然と振舞う人間はむしろ自然で人間臭いと思えてくる。エゴイスティックな振る舞いこそが
純粋な素直さであるように思えてくる。ほしいものをほしいと叫ぶことや、上手くいかずに泣き叫ぶことは、ぜんぜん悪ではない。
いかにそれが自分の欲求だけしか考えていない、相手の迷惑を考慮しないことだとしても、まったく悪ではない。
悪なのはそのような欲求の隠蔽である。
欲しいものを欲しいといわず、上手くいかないと思ってもなんとも思わず、自分のことなどどうてもいいというフリをしながら実は自分の事しか
考えていないという事が、悪なのである。
エゴイズムを隠すためのうわべだけの行為にはウソがあるという意味ではそれは確かに悪であるが、
それが悪であるのはエゴイズムにとらわれているような人間がそれにもかかわらず自分が利他的であると思い込むことから来る倒錯が、有害だからである。
ロスローリアンのランスロットは、必ずしも自分自身の利害だけを優先しようとしてあのようなエリート主義的なエゴイズムにとらわれたのではなかった。
彼の思想は、実は彼なりに社会を思いやり、人々のためを思って民衆が求める期待にこたえようとした結果生まれたものなのだ。
彼は自分の利害のために民衆を利用しようとしたのではなく、民衆が望むものを与えてやれる自分たちのようなエリートが必要なのだと考えただけだ。
しかし実際には彼は自分の考えを実現するための必要悪として力で民衆を封じ込めてしまう。民衆を暴力で支配しながらもそれが民衆の幸せであると
思い込むような、自己中心的なエゴイズムと、民衆を思いやる非エゴイズムが結びついて本当の悪がうまれてしまうのだ。
相手が求めてもいないことを自分勝手に相手が求めていると思って、余計なお世話なのにおせっかいをやいて相手をボロボロにしてしまう形とでもいうか。
相手に愛されてもいないのに相手の気持ちを勝手に想像して勝手に相手に愛されていると思い込んで空想の愛にこたえようと必死に犯罪行為に走る
ストーカー的な悪とでもいうか。悪というのは、単なるエゴイズムではなくエゴイズムによって駆動される自分勝手な思いやりが生み出すんだとでもいおうか。