福島原発問題と部分最適の総和≠全体最適の問題を結びつけて考えてきたこと

凄く体調が悪くて何もできない状況なので、
とりあえず今まで書き溜めてきたことをここにまとめてあげておく。


部分最適の総和は全体最適にはならない、と言われる。
例えば、会社でいうならば個別のそれぞれの
部署が自分達の部分最適を追求した結果が、会社全体の合理性に結びつかない。
各個人はそれぞれ、自分達の為に努力しているはずだ。
しかしそれでも、全体で見ると、矛盾を生んでしまう。
こうしたことは、社会全体で起きている矛盾だ。
例えば福島第一原発問題において東京電力や、政府や、国民の間でも
同じ問題は起きていたように思う。
東京電力原発を守ることを追求する。政府は、産業界を守ることを追求する。
国民は、自分達の生活を守ることを追求する。
どんな場面においても我々は常に何かの部分である。
日本という国家そのものさえ、世界においては部分でしかない。
人類さえも、生命からみたときには部分でしかない。
我々は常に、全体ではなく部分である。こうした視点から眺めてみるとき、
部分最適の総和が全体最適にならないという仮説は、
世の中の非合理的に思えるすべての根底にある矛盾であるように私には思えた。
客観的なポジションや、第三者的な視点、純粋に合理的で科学的な分析という
ものは存在しない。そのようにそよおう、特定の立場にある人間の発言が
あるだけだ。例えば原発でいうならば、
そこには原発推進派と反原発推進派という立場以外には発言の立場はないのだった。
中立的な視点というものはなく、中立的な結論というものもないのだった。
部分最適の最小単位は個人的活動にまで細分化され、
全体最適の最大単位は政治的活動にまで拡大化される。
こんな中で、部分最適の総和が全体最適にならないのであるとすれば、
全体最適の細分化は裁量の部分最適になるであろうか?
それともそれはどこかで妥協点を探るトレードオフの関係でしかないのだろうか?
そうだとしたら、世の中からは不合理に見えること、
ある別の視点からは理にかなっていないように見えるような行為態度というのは
常に原理的に、いかに誰もが個別の合理性にしたがったとしても決して
なくならないのではないだろうか?


こうした議論をするとき、常に経済学的な人々はマクロな問題とミクロな問題は別だと
いう話で切り捨ててくる。しかしそのマクロな話とミクロな話の間には
本当に何か別種の問題が存在するのでしょうか。
それともある抽象度に立って考えたときに同じ構造が同じ不協和を生み出すでしょうか。
あなたは本当はどうお考えだろうか?私は同じ構造が同じ不協和を生み出しているのではと思う。
全体と部分という概念は、どこかでマクロやミクロと区切れるものなのでしょうか。
個人の心理システムの全体最適は、個々の欲望の部分最適の総和ではない一方で、
家庭の全体最適は、個人の心理システムの部分最適の総和ではない。
ましてや地域社会は各家庭の部分最適の総和で成り立っているわけでもない。
同じことはさらにマクロなレベル、あるいはミクロなレベルへと無限に
たどることが可能なのではないでしょうか。
それとも、社会や国家や組織のような、ある種の主体を欠いた概念を用いたときに
それは別の法則で動いているものとして記述することができるのでしょうか。
そしてその先に何が全体最適部分最適の交点であるかは突き止められるのでしょうか


全体最適化だけを重視したとき、部分は一見最適でない状態になる。
部分最適を重視したとき、全体性はバラバラになってしまう。
歴史は次第に、みせかけの全体最適をうたう部分最適化によって荒廃に向かいつつ
あるように思います。例えば、国益という名分を掲げた利権保護であったり、
エコロジーという名分をかかげた、利益活動であったり
家族のため、という名分をかかげた、共依存であったりです。
そればかりかみせかけの全体最適をうたう部分最適福島原発にも、政治にも、地域社会や、
家庭や、個人の内面にすら 現れているように私には見える。


原子力政策についていうなら、いつでも核武装できるためのオプションとしての
思惑もあり、そもそもが冷戦期に正力松太郎らがアメリカの核実験で世論が
反米に傾かぬために自身が握っていた読売新聞と日本テレビを通じて
"原子力の平和利用"のプロパガンダを流して自分自身が初代原子力安全委員長
になって導入したという経緯がある。これが核武装化と、対米追従という
全体性でみたときの部分最適になっている。そのため例えば原子力安全保安院
厚労省でも防衛省でも科学技術省でもなく経産省においてある。
今の政治は何がベストなのかという全体性ではなく、すでに決められた
枠組みの中での部分最適で出来上がっているという一例ではないでしょうか


部分最適の怖いところは、誰もがみんな合理的に最適な判断をしているにも
関わらず上のレベルでみるとグチャグチャにみえるような状況が生み出される
ということだと思います。
例えば東電も、保安員も、現場も、政府も、みなそれぞれ合理的に決断して
行動した結果、福島第一原発はまったく不合理な状況になっていくわけです。
彼らは皆、高IQ組織のはずです。我々よりははるかにIQの高い人たちが
それぞれの組織の中で非常に知的に仕事をこなしていたことは恐らく間違いない。
であるがゆえに、全体最適にはならないのです。
部分最適全体最適に近づくためには、
おそらくは部分部分が共有すべきひとつの統一的なポリシーが必要だと思います。
トップが戦略のデザインを設計し、
それぞれがそのグランドデザインを共有し、それぞれの役割を分担し合って
全体性の中の部分を最適化する。 そういう動きが必要なのではないかと思います。
対策本部をどこにつくるとか、首相を変えるとかそういうことでは何も進化はない。
私が言いたいのは、この構造問題を解決しなければ誰がやっても同じだということなのです。