悪の教典:映画版

 さて、先ほどのエントリを見返してみて、青の炎、悪の教典上下巻は、表紙が青・黄・赤の三色になっていることに気がついた。
まるで、危険を知らせる信号機のようだ。
 それはいいとして、悪の教典の映画版もみてみた。原作を読みながらイメージしていたシーンとは違うし登場人物のイメージも違うけれど、
これもいいなと思える感じもあった。
 ただ、いくつか教員の役割が原作と違うなというのがあった。そうしないと、役者が多くなりすぎる為かもしれない。


 どうしてもダメだなと思えた所がある。
 あの見せ方だと、主人公が生徒を掌握しきれずにプッツンしたように見えてしまうというところだ。
 まともな人間がプッツンしたというのは、受け入れられやすいかもしれない。だが、原作の恐ろしさの本質がまったく理解されていない。
主人公は、はじめから人殺しだったのだ。にもかかわらず、普通の人間を演じることに長け、好かれて信頼され、成功してきた人間であった。
普通の人間を演じているだけの、根本的に人間性のない異常者であるということが、まったく表現できていない。


 フギンとムニンの使い方も、間違っているように思う。ラストでは主人公が本格的に狂ったかのように見えてしまう。
それではやはり本質的な所が伝わらないと思う。主人公は、与えられた条件の中で最適解を選択するだけだ。
その条件の中に、良心の呵責や罪悪感を苛むものがあった時にも、主人公は迷わないで最適解を選ぶだけなのだ。
だから彼は、必要なときは人を殺し、そのほうが得だと思うときは優しい人間を演じている。
快楽殺人者ではないし、狂っているわけでもない。サディストでもない。誰もが彼を尊敬し、愛しているが、彼は感情がない。
感情豊かな演技をすることに長けているだけでまったく人間とは違う考え方をしている。計算機のように。


 そういう人間が、大虐殺を行ってしまうであろう状況へと、原作の貴志祐介は状況を追いつめて描いた。
そうなったときに理解しようがない恐怖の状態が訪れるからだ。
だが、映画版の監督は、やはり原作の深刻さを理解しきれなかったのだと思う。あれではまるで、ゲームだ。
リアリティがあった原作が、急に作り話らしい楽しい虐殺になってしまう。完全に原作が冒涜されたかに思える。
貴志祐介本人が出演しているから、本人もそれで満足だということなのだろうか。
あの頓珍漢なあとがきと同じように、私は非常に不満を覚えた。