その102:サイコキネティック痴漢技術総合研究所


 まあいずれにしても、スペッキヲは何かしら異様にヘンなところがある人間ではあったのだ。
 倉橋総一郎は、スペッキヲがそういう人間であるがゆえに、信頼していた。総一郎の目にももちろん、スペッキヲの素は捉えられてはいない。
ただ、ある種の古臭い人間、昭和の香りをまとった職人という”キャラ”には見えていたのだ。
 そしてそれは、実際、そうだったのかもしれない。人間は元々は、今ほど他人に対してデフォルメされたキャラを強要し合わず、
もう少し内面的な複雑性に対して真摯に時間をかけて取り組み合うことができた。人間関係が過剰なほど流動的になる前の社会では、
生まれた時にそばにいた人間たちと、死ぬまで人生を共に生きるのが当たり前の現実だったのだろう。
 クールで都会的な、仮面舞踏会のような洗練された社交術など、必要にならない、外部のない村社会の中で、プライバシーのない家族のような関係性を
生きていた人々もいたわけだった。
 スペッキヲがそういう人間かと言えば、まったく違うだろうが、何かしらそういう類の古びた野暮なストレートさがあることは確かだった。
そしてそれをいったん理解しさえすれば、彼という人間は極めて難しい人間であるというイメージは消え、分かりやすい田吾作であるということが見えてくるのだった。


 まあなんにせよ、彼自身が抱えている苦悩は、彼自身が悩むことだけではなく、単純に時間や関係性の蓄積の中で自然に収まっていく問題なのかもしれなかった。
なるほどこいつは、こういう人間だったのかという風に、誤解が次第に埋まっていくことの中、自然に少しずつ解消されていく問題にすぎないのかもしれなかった。