その103:サイコキネティック痴漢技術総合研究所


 が、いずれにしてもスペッキヲ自身は、それをそういう問題だと割り切って考えてはいなかったようだ。
彼自身は、まだ短いながらもその人生の中で、時間をかけた関係性が互いの内面的な誤解を埋めていくことはないとなんとなく感じていたからだろう。


 3,4年仕事を共にした諸先輩らとの相互信頼も、一定の距離感から先には進まなかったし、人の入れ替わりによって関係性も濃くも薄くもなっていった。
何よりも、時間の問題に過ぎないのであれば、自分の人生が始まる前から自分を理解しているはずの、遺伝情報まで共有している両親が自分を誤解なく理解できないはずはなかっただろう。
三つ子の魂百までもというときの、三つ子の自分を知っているという意味で本質的には理解されているにせよ、それでもやはりすべてを共有しあえないからこそあらゆる青少年たちは
反抗期を迎えたりするものなのだった。


 そういう意味では、人はそれほどまでに互いを知りたくはないのだし、知りたくないものは知りたくないのだ。
知りたくないので理解し合いたくもなく、ほどほどの距離感から先には、行きたい相手とだけ行けばいいという感じでしかない。


 如何に、深入りすることなくそつなくやっていけるかを、スペッキヲは追求している。そういう中で、互いの誤解が生まれないような洗練された生き方
というものを彼は模索している。誤解が生まれるような内面を一切開示しないことによってであった。
 そしてそのことが、普通に見れば、彼が心を開かないかたくなな人間であるかのように見えてしまう一因を成している。適当なキャラを演じる器用さが彼にないが故にであった。