その104:サイコキネティック痴漢技術総合研究所


 人が皆、本当の自分というものだけをさらけ出す社会には一つの縮図が存在をする。幼稚園や保育園の子供たちの社会がそうである。
その自然状態は、大人が見守ってコントロールしなければならない社会だ。
 人が本音をさらけ出すと、そこには慈しみや助け合いよりももっと身もふたもない戦いの世界が生まれてしまうということである。
教えられなければ、人はモラルある態度など取るようにはなっていない。


 人間というものは放っておけば、絶え間なく争いあう生き物なのかもしれない。当事者同士の暴力能力の競争によって争いを解決していたのでは、
憎しみの連鎖が終わらない。だから人間は社会を形成したのであった。それは、暴力能力を統治権力に預け、発生した問題を全員が合意したルールに従う統治権力の暴力という形で発現させ公平に解決
する社会であった。そのことを権力と呼ぶ。それは憎まれ役である。大人が叱ることによって問題を解決するかのように、裁判所や警察や軍隊が暴力を引き受けることによって、恨みをかわないフェアな解決というものを形成したのだ。


 だがそうした一段高みの暴力能力もまた、人間が運用するものにすぎないのだし、例えば国家間の外交問題のような場面になれば、その上の大上段の暴力装置は機能しえない。
歴史の理想とは裏腹に、社会そのものもまた、どこかしらある種の自然状態の様相を呈している。


 それはしかしどうでもいいことであった。スペッキヲは自分が素の自分でいようとすることに、もしかすると罪悪感を感じてはいないだろうか、ということを言いたかったのだ。
彼が子供のような態度をとろうとすること、それを肯定する態度。それは、周囲の人間関係を、どこかしら自然状態に近づけているのではないかということ。
そのことに彼は無自覚ではいられなかったからである。