クロサワコウタロウ先生「珍夜特急1―インド・パキスタン―」KDP読書感想文

珍夜特急1―インド・パキスタン―

珍夜特急1―インド・パキスタン―

 電子書籍を読んでいるという人は、統計によると非常に多いということになっている。だが普段生活している中でそういう方と出くわす機会はあまりない。
電子書籍個人出版するという話をすると、なおのこと驚かれる。そもそも小説なり本なりのような文量を、どういう時間に書くことができるだろうか。
そんな時間に恵まれる人はなかなかいないのかもしれない。


 さて、このクロサワコウタロウという人物は、その道では極めて有名な人物である。
 だが、その名を駅前で叫んでも知っている人はいないのかもしれない。
この方は、Amazonという世界最大のECサイトに、個人で書き上げた電子書籍のシリーズを個人で出版(いわゆるKDP)している人々(いわゆるKDP作家)の中で
もっとも成功しているスターだ。少なくとも、出版社を通さない作品だけに絞り込んで統計をとったとき、この人の作品が突出して売れていることが分かった。
しかもその状況はもう何年も持続しているというのである。


 そして最近では、アマゾン社がKDP NEWSなるプレスリリースでクロサワコウタロウ氏のインタビューを提供した。
http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000566.000004612.html

「今はKDPの売上だけで生活しています。といっても、1人で食べていくのに困らないという程度ですけど」
      -- クロサワコウタロウ氏


 インタビューによれば、この方はこの電子書籍個人出版のみで生活が立っているようだ。


 この珍夜特急という作品は、沢木耕太郎さんの深夜特急というシリーズにちなんで展開されているノンフィクションなのだそうだが、
その元祖を売り上げで上回っている。この作品に対して私は当初、二つの理由で関心を抱いた。
一つ目は、1996年頃、猿岩石が進め!電波少年という番組において「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」というのを行い社会現象になっていたことを思い出したということである。
そして二つ目は、実はこの珍夜特急が辿っている横断ルートは、パキスタンイラク、中東など、今となっては渡航困難な紛争地域となったエリアだということである。
そんな世界を肉眼で見て、空気を吸ったことのあるばかりか行く先々で現地人と無数の珍事件を繰り広げた本人が、その場所は実際はどういう世界なのかを語っている。
これは、貴重な作品なのではないだろうか。


 そう思ってこの電子書籍を紐解いていったとき、私は驚いた。
とてつもなく長いシリーズの中の一冊目のはずだぞ。語るべきことがこれだけあるという中で、一冊目をどういう粒度で記述するのかは
恐らくとても難しい問題だったはずだ。なのに、これは一体、どういうことなのだろうか?


 前もって予期していた不安は、一瞬で払拭されてしまったのだ。
どこかシニカルさを醸しながらも、活き活きと描き出されるその異国のエピソードは
なんとヘミングウェイの「ケニア」を読んだ時の感覚にすら似ていた。

安宿街にあるというそのホテルは、夜になり客がベッドに入ると、
あたかも忍者屋敷のように壁が反転するらしい。
そこから刃物を持ったホモが現れて、
「やるか、死ぬか、どっちだ」
と決断を迫るというのである。
                 -- 珍夜特急1―インド・パキスタン― 第2ヵ国目パキスタン ”忍者屋敷の男色魔”より


 実は私は旅行記のノンフィクションはほとんど読んだことがない。
ノンフィクションといえば、大体事件の事後調査モノばかり読んでいたからである。従って私の感想はあくまでド素人の感想にすぎない。
ジャンルということにとらわれずあくまで読み物として、あるいはフィクションに置き換えて考えてみる。
 

 小説というものは文芸であり、文芸とはレトリックなのだと思われがちだ。だが寿司屋に換言して考えてみると、レトリックは握りの技術にすぎない。
美味いのはネタであって、ネタがまずければ握ってもダメだと思う。昨今、売れ筋の小説の多くは特に文体に趣向を凝らしていないように思える。
ストレートで分かりやすい表現、そしてネタの良さで評価されている。
その視点で捉えなおしてみるとき、この珍夜特急は、大陸横断の冒険譚という実体験に基づく豊富なネタだけでなく、シンプルな強い文体を備え、
まさに個人出版作品の頂点に見合う傑作であると思う。