アーキテクチャの生態系|読書感想文

アーキテクチャの生態系は浜野智史氏による、情報社会論である。
アーキテクチャという言葉は、元々は建築用語であるが、情報技術の分野においても設計の意味で用いられている(システムアーキテクト、などという設計技術の職能もある)。


だが、情報社会論においてはアーキテクチャはただの設計思想のことに留まらないさらに広範な意味を与えられている。
アーキテクチャが環境を決定し、ある種の権力として機能しつつあるからである。
かつて社会秩序は法と規範によってコントロールされてきた。だが、今日においてそれよりも洗練された形で権力を浸透させつつあるのはアーキテクチャである。
法による秩序とは、罰則を設けることによって秩序をコントロールすることであり、規範による秩序とは、教育によって規律を内面化させることで秩序をコントロールすることであった(モラル教育)。
それらはいずれも規律訓練的な学習なり訓練によって道徳心の理解と内面化によって維持されなければ破綻してしまう(規律訓練型権力)。
従って、それは抵抗しようと思えば抵抗することも可能であった。
ところがアーキテクチャによる権力(これが環境管理型権力と呼ばれている)は、自分たちが支配されている事をまったく意識させないままに秩序を作り上げる権力である。


例として引き合いに出されているのが、ファストフード店が客の回転率を上げるために使う仕組みだ。
ファストフード店は、椅子の固さとBGMの音量によって客の回転率を自在にコントロールしているという。
長居しやすさ/しずらさを意図的に調整し意識させないレベルで無意識下に働きかける。
すると客はなんとなく居心地が悪いので店を出たり、居心地がいいために店に残ったりする。
このコントロールは、潜在意識には意識されないレベルのため、誰もそのことに気づかず抵抗できない。


あるいはまた、交通事故を防止するために飲酒運転の罰則をどれだけ引き上げても、飲酒運転はなくならないという状況があったとする。
これに対する環境管理型権力の例は、車内にアルコール検知器を組み込み、酒気帯び状態ではエンジンがかからないようにするというアプローチだという。
法律を知らない者、規範を内面化しない者であっても、飲酒運転はしなくなる(できなくなる)。
こうした制約は、大抵の場合、何か新しい事を可能にするサービスに付随して浸透していくことがある。
例えば、コンビニで何々が可能になります、などの利便性にくっついて、オフにできないなんらかの規制が追加されたりというようなことである。


本書は、そうした環境管理型権力の議論に対して
徹底抗戦を呼びかける、あるいは全面肯定するというような類の書物ではない。一例をあげると、


 ・WEB2.0以降のネット界隈で生まれた様々なサービスについて、それらがどのようなアーキテクチャとして(意図的であるにせよないにせよ)機能しているか。
 ・あるいはまた、ブログと2ちゃんねるfacebookmixiなど、日本とアメリカでは異なるアーキテクチャが受け入れられていく様相。
 ・なぜセカンドライフは凋落しニコニコ動画が支持されたのか、電車男のようなPC小説や恋空のようなケータイ小説はどのようなリテラシーで読解されているのか。


などなど、ゼロ年代(つまり今となっては少し前の時代)のネット社会を、アーキテクチャの比較によって分析した書である。


まだmixiが全盛でfacebookは日本には浸透しないのではと言われていた時代の話なので内容的にやや古い部分はあるし、
書内で対立すると言われ比較されているものの中には、その後双方中間地点にそれぞれ着地して今では大差なくなっているものもある。
だが、セカンドライフニコニコ動画を比較する視点から出てきている分析はかなり興味深く思える。というのは、その分析が2010年代に入ってソーシャルゲームがなぜ受け入れられていったのかの
説明としても改めて追従できる極めて説得力ある答えになっているように思えるからだ。
(セカンドライフは、仮想世界上での場所や時間を現実そのままに再現した為に、盛り上がる為には仮想空間上を移動してその時間にその場所にいる必要があった。
 ニコニコ動画はそのレイヤーがなく、場所も時間も関係なくコメをつけられるために時空間を超えて始まりも終わりもない祭りが常に参加できる(視聴してコメをいれられる)状態で延々と続く。
 少なくともその後のソシャゲも同様に場所に関係なく祭りに参加している感覚を非同期的に作り出していた。MMORPGも、街からいきなりダンジョンに飛べるなど
 仮想空間上の場所の概念の持つ意味が次第に小さくなるような展開に向かってきたように思える。とは言えもちろんSkyrim以降の超広大なマップを持つオープンワールド系のRPGも支持されているが......)。


また、当時のローレンス・レッシグの議論やWinnyなどについても分析されている(DRMクリエイティヴコモンズなど)。
これは当時レッシグのCODEが流行ったので、今となっては古びてきた内容の繰り返しに思える一方、
日本で浸透するサービスの多くがなぜ匿名性を持っているのかということについての分析は、興味深いものがあった。