世界観とは何なのかを勝手に考えてみた


 新海誠の「君の名は」の広告をみてこの人の作品はなぜこんなに強い世界観を感じさせるのだろうと考えていた。
目の前にあったのはただの絵でしかない。作品を見た後に全体を理解したうえでの状態であれば、
世界観とは全体性の調和の事だと、かなり素朴に言えたはずだろう。

 ところがこの世界観を感じている時点で私は、作品を見ていない。昔の作品を見ていたから、その印象がまだ知らない作品内容を補完して、そこで世界観を感じ取ったのだろうか?
だがそもそもそれらの過去作品と似ている保証はひとつもない。
 じゃあ一体どこに世界観を感じるのだろう。見てもいないのに感じる世界観はどこから来るのだろう。私がその時、端的に感じたのは、つまりこういうことである。


「背景だ」


 庵野秀明新海誠には一つの極めて分かりやすい共通点がある。キャラクターはデフォルメされているにも関わらず、
背景は異常なほど緻密で写実的だ。フェティッシュを放つほどまでに、細部に行けば行くほど高精細な線が密集し、それは作品の世界を超えて
現実の生活社会の記憶や感覚を召喚する。背景が異常にリアルであることによって、その絵づらは、描かれているものの外側にも空間が広がっていることを
疑いようもなくほのめかす。



 そしてそのことからは、なんとなく芥川龍之介羅生門を思い出した。羅生門の文章の凄みというのは何なのかというと、
かなり短く端的なことだけを語っているような字数でありながらも、文章がたどった流れがまるで葛飾北斎の浮世絵のように、
触れたいくつかの事柄だけを手掛かりに、ほかの事は語らぬまま、奥行きの中に封じ込められた完全な風景を読み手の前に浮き彫りにしてしまうような表現力だった。こういう表現は
常人には不可能で、何を強調し何を真っ白くかき消すのかということには、強い趣向性みたいなものが反映されると思う。
何かを撮影するときに、どの距離からどの角度で撮影するかという感性の中にその人の価値観のようなものが強く現れるのと似ているかもしれない。



 水墨画を書いたことはないから適当なことを言っては怒られるかもしれないが、日本の伝統的な表現の多くは、実は描くことによって
表現するというよりは、むしろ線や面によって空白を浮き彫りにすることで、虚無にこそ奥行きの本質を表現させるような
逆説的な表現によって、空白のほうに主題を語らす”浮き彫りの技術”に特徴があるのではないだろうか。


 世界観というのは、そういう意味では、語られる物語や描かれる対象というよりも、その奥の陰影の中に投じられている、絵づらの外側にまで
ぐるりと達しているような描かれていない空間のリアリティのような気がする。
 そしてそれを作り上げているのは、カメラの中心というよりはむしろ脇役だと思われている後ろの背景のリアリティなのではないか。