アドラーのようには考えられないが、確かに他人の内面を想像するのは

 誰々にああ思われたくないこう思われたくない、
というような他人にどう思われるかということについての不安が
人間関係の中で次第に生まれてくる。


 すると、そのああ思われたくないために、こう思われたくないために
という事に準じた選択肢へと、選択肢の自由が次第に消えていく。
 

 そのああ思われたくないこう思われたくないという感じは、
自己開示によって一時的に解決しても、自分のほうも相手の方も変わっていって
何度も何度もよみがえってくる。


 誰々にはこう思われたくない、別の誰々にはこう思われたい、しかし皆にはこう思われたくない、
というような条件は、全体で巨大な連立方程式になって無限の選択肢を有限の選択肢に縛る。
 その時に、どのように縛られているのか計算できなくなると、行動ができなくなったりするのかもしれない。
どんな行動がそれぞれどのように思われたのか、予測できなくなったりするのかもしれない。


 ただ結局のところは、人は皆、実はほとんど偶然居合わせているだけの
まったく無関係な他人同士にすぎない。
 その思い悩む事柄も、実は一時的で、大して重要な問題などではないのかもしれない。


 いずれ会う事はなくなり、二度度思い出すこともなくなるような
そんな偶然のめぐりあわせの繰り返しでしかないのかもしれない。


 それは無常観とか諦念とは違う。ピンボールの弾が悲しんでいるかどうかを考える必要があるのかないのかというような
そういう問題にすぎないのかもしれない。