人が互いを必要としあう条件


 酔った勢いで最近考えていたことを、K氏に話してみたが、うまく説明することが難しかった。
 自分の中でまだ、はっきりと考えが整理できていないと思った。


 世の中でよく言われている事に、「愛」が大切だと言う類の様々な言論がある。そしてそれに異論はないと思う。しかし、それは何か重要な事が足りない。
キリスト教の世界で言われているらしい事は、「無償の愛」であるとか、「隣人愛」みたいなことのようだ。汝の隣人を愛せよ。左の頬を叩かれたら、右の頬も差し出せ。
あるいは、社会でおそらく重要になってきている、バリアフリーの問題であるとか、お年寄りに席を譲る、困っている人を支援する、そういうものすべての事を
想像するとき、確かに「愛」は大切だし、それらすべてを支えるために「愛」をキーワードに社会が同じ方向に足並みをそろえるのは、とても良い事だというより他ない。


 ただ、それだけでは、何か重要な事が足りない感じがするのだ。


 人は、周りの人に助けてもらえさえすれば幸せに生きられるか?
 確かに、不足しているものがあれば、それを周囲が補ってくれる、そうであれば、不自由なく自由に生きられそうに一見思える。


 ところが人はそれだけではまだ幸せにはなれないだろう。
統計データから、先進国の中で日本は幸福度が低い、という風に言われているのを聞いたことがあるはずである。
それが何故なのかを考えてみてもいい。不自由がない、自由。何もかもが与えられて、それでも「何か重要な事」は欠落したままだからである。


 これを考えている中で、自分の中で整理ついていない事が色々あった。「愛」と言っても、それを与える側と受け取る側がいる。
「愛」が大切というだけでは、愛することが大事なのか、愛されることが大事なのかさえも、いっしょくたになっている。
ましてや、社会が不自由を抱える人を支える際に、相手が愛される人かどうかによって、何かが左右されているという風にも思えない。
まず「愛」と言われているものについてすら、それがただ愛と言われているものなのかどうか、それとももっと、感情とは異なった、公平さに向けての理性的な別の何か
なのかよく考えてみないとつじつまは完全に合っているように思えないが、ここで今考えたいのは、そもそもそれとは別の問題なのだ。


「愛」であろうが、他の何であろうが、人は”与えられるだけでは幸せになれない”ということである。
”求められ、必要とされている”と思えなければ幸せになれないということである。
”必要とされているように思えない”という感覚こそが、様々な満たされなさの原因なのだということである。


 それでは”必要とされている”とはどういうことだろうか。”必要とされる度合い”みたいなバロメータをイメージすればいいのだろうか?
その度合いは人に応じて個人差が現れてくる。誰もに必要とされる人間というものをイメージすることができる。その中での選りすぐりの頂点のような人間も
イメージできるだろう。そういう人間でない限りは、”必要とされているように思えない”という感覚からは逃れられないのだろうか?
具体的に言えば、例えば、映画俳優なりトップ女優でないかぎりは、幸せを感じられないだろうか?
 ところが街をあるけば、それがまったくの見当違いだという印象を受ける。そして週刊誌をめくれば、もっとも魅力的で幸せであると思われている人達の不幸が
グロテスクに描かれていることに気がつく。どういうことなのだろうか。


 一つの分かりやすい説明としては、こうである。
もっとも必要とされている人物が仮にいるとして、その人はありとあらゆる他の人々によって必要とされ、”必要とされたい”という自分の願望は満たすことができる。
しかし、ありとあらゆる人々によって求められているその人物は、
まわりの人たちの”必要とされたい”という願望を満たすことができない。
誰もに必要とされるその人物は、どのような人物を必要とするだろうか? ありとあらゆる人間に必要とされているほどの人間が、自分だけを必要としてくれていると信じることは
とてつもなく難しいことだろう。
ありとあらゆる人間に求められる人間になろうとすればするほど、その人自身は幸せになれるかもしれないが、そうなればなるほど、周囲の人々は自分がその誰もに
必要とされるほどの相手から”自分も必要とされている”と信じられなくなっていくのではないだろうか?(例えば、こんなに魅力的なのだから、他にもいい相手がいる、他の異性に浮気されてしまうかもしれない、と)


 睦ましいカップルを朝見かける事がある。男性のほうは、何かの介助を必要としているようで、女性の側に支えられるようにして毎朝駅まで連れ立っていく。
あの二人はたぶん苦労も抱えているのかもしれない。しかしはた目にはとても幸せそうに見える。
 なぜならば、二人にとって、お互いが相手にとって自分が必要不可欠な存在であるということを、お互い確信し合い、信頼し合っているように見える。
相手に自分がいなければ、相手は生きていけないにちがいないと思い、自分が”必要とされている”という感覚を感じ、迷うことなく生きられている女性と、
本当に生きるために、相手の理解と支えを必要としているその男性は、「必要としている」「必要とされている」という与える → 受け取るという一方向というよりも
「必要とされる」ことを必要としている人に対して「相手から必要とされている」という期待を与える → 受け取るという相互の必要なものを互いに求め合い満たし合っているように見える。
しかもそれは、他の人たちが簡単に代わりを務めることができないような、それまでの長い時間をかけた相互理解と相互信頼に基づけているはずだと思う時、
彼等は相手にとって本当に必要なのは別の人かもしれない、というような迷いを生じる余地もないほど、自分を理解し支えることはこの相手にしか不可能で、相手を理解し支えられることもまた、
この自分にしかできないと確信し合いやすいはずなのではないかと思う。


 つまり、人は愛を与えられるだけでは幸せにはなれないのではないだろうかということを、言いたかったわけである。
愛されるだけでは、幸せを感じられないということである。
 与えられるだけではなく、相手が求めているものを、自分だけが与えられるのだという、必要とされている感覚
つまり、”求められる”感覚を満たしあうことの必要性について、議論されていなさすぎるのではないかということを言いたかったわけである。


 困っていそうだなと思って、笑顔で助けを与えましょうというだけではなくて、
ガマンしないで誰かに「たすけてくれえ」と頼りましょうということ。
愛で物は満たされるけれど、心は必要とされることで満たされる。
相手を支えられるのは自分だけ、という感覚は、素直に「たすけてくれえ」と求め合わなければ満たし合えない。
このことは意外と、世間であまり言われていないような気がして、考えてみたのであった。


「私にとってあなたが必要なんですということを伝え合えていますか?」
「与える一方だけ、あるいは求める一方だけになっていませんか?」


 人間は、与えられたいのではなく
     求められたい のではなかったろうか。

 そう考えてみると、愛は地球を救うであるとか、無償の愛とか言っているだけでは重要な事の半分しか
語っていないように私には思えるのだった。