とある方のツイキャス配信を聞いて考えた事

 昨夜、とある方のツイキャス配信を観た。


 コメ欄に、いつもとは違う刺激的なコメントを返される方がおり、どうやらその方への回答を中心に
配信の内容が創作論にグイっと旋回した。(それまでは鼻血の話だった)


 そしてそこで配信主は劇的に饒舌になり、今までの回とは面持ちの違うテンション高めの内容に
なっていたのである。


 キャラやら設定やらテンプレで作り上げられていく小説ではない物を描きたいという話から、
エロ表現や死や女性の生理のような社会的なタブーを規制で隠してしまうのは如何なものなのかという話に行き、
そこからだんだん話題は創作の領域を超えていくような内容に到達しつつあったのだ。


 そこで話はかなり難しくなっていた。氏は客観性ということを、例えばタブーに対して、ただ他人事として傍観する立場だとは考えていない。
そこで氏は俯瞰と鳥瞰という言葉を出す。


 他人事のようにただ遠目から傍観するのでもなく、片方にだけ肩入れするのでも勿論なく、対立の両側に対の当事者意識を、想像力で理解する
というのが、氏の言う客観性なのだろうと、聞いていて思った。


録画はこちらから見れるそうです。

前半:
 http://twitcasting.tv/c:pcu28770/movie/387182711
後半:
 http://twitcasting.tv/c:pcu28770/movie/387193627

 考えてみれば、創作というのは、そもそもそういう行為である。
物語の中には、多様な対立する無数の人格が登場せざるをえない。彼等の間に何の軋轢が、なんのために生じるのかについて自らの内面の力で想像せざるを得ない。
互いに理解しえない別々の人間たちの事を、すべて自分の思考の中で想像しきらなければならない。


 創作とはそもそもそういう活動だった。
私は彼/彼女らがただ、楽しいからキャッキャウフフと文章を書き綴っているだけの人間であると勝手にナメていた。
それは全然違う。彼/彼女らほど広範な読書経験から学ぶ事を常としている者たちはおらず、彼/彼女らほど人間や心について考え続けている人々もいない。


 そう思って自分もその後、自分なりに考えてみた。
すると氏の客観性は、どちらかというと全体像に対する中立性のようなイメージのように思えた。
例えばこんなような事だ。


 とある事象Xが問題となった。
それによって立場Aが被害を受け、立場Bはどうでもいいと思い、立場Cはいいじゃないかと主張する。
それぞれの比率が例えば


 A: 20%
 B: 50%
 C: 30%


 のような比率だとする。すると世論は例えばAが弱い立場だと言いう事を強調することによってBがガラッとAに肩入れするように動く。
Bの立場が客観性なのではない。AとCを経てBに至るものが客観性なのだろう(想像力においてであれ、あるいはフルコミットメントにおいてであれ)。


 二つの事を私は思い出す。一つ目はメディア論などで大体冒頭に述べられる考え方だ。世の中には客観的な真実が存在しない、ということを
例えばマスコミにいこうとする若者たちが学生時代に叩き込まれる。目の前でビルが崩壊することを並んで目撃した二人にインタビューすれば、
二人それぞれ目撃したものに対してそれぞれ別のしゃべり方をする。その時点で、実は真実は解釈を経て二次情報へと変化している(伝言ゲームのはじまりである)。
まったく同じことをまったく同じように経験する者はいない。だから彼らは、何かについて記事をまとめるときに、それを支持する立場だけでなく逆の立場の
意見も取り上げた上で、どちらの立場でもない見方を帰結するわけだ。


 二つ目は、哲学者ヘーゲル弁証法でいう「アウフヘーベン」だった。止揚とも言われるこの考え方はAとBの異なる議論の対立を、一方がもう一方を完全に封じ込める
という議論ではなく、対立する二つの立場が出会う事によってどちらの立場でもないより高い帰結に全員が到達することを目指すような議論だとされる。
これは一つ目のメディア論の話と繋がっているだけでなく、氏が言っていた「傍観者ではない客観性」に通じる考え方ではないだろうか。


 人間というのは、なんらかの形で生きているというただそれだけの時点ですでに本来的には客観的になることは困難であったりする。
なぜなら自分のそれまでの生き方を否定するような考え方を受け入れることができないし、自分のそれまでの生き方を肯定するような考え方を受け入れやすい。


 そして対立する何かを見出した時、誰かを守るために、対立するだれかを叩く考え方を支持する立場に簡単に転がり込む。
人は感情を持った人間なのだから、好きな人を守るなり同じポジションを張るために、それと対立する考え方を敵にまわそうとする。
向こう側の意見は聞いてみる必要がないし、敵の気持ちに共感してみる必要もない、と考えやすい。


 これは私見だけれども、そのような考え方をしている限りは人は延々と争い続けて、戦争なりなんなりもなくなっていくことがないように思う。
(例えば相手サイドが別のポジションを張っているのはバカだからだではなく、そう考えざるを得ない必然的な人生が向こう側にある、と考える事ができないから対話できない)
例えば対立の両サイドにコミットメントできるような想像力を持った人々にとって、それはどのように見えているものなのだろうか。


 ただまあ、次の配信はきっとダジャレの配信だと思う。
もしかすると面白い作品が生まれるかどうかは、こんなことを考えるかどうかということは何の関係もないことかもしれないから。