野村 龍成先生「プフトゥカワの花」KDP読書感想文

プフトゥカワの花

プフトゥカワの花

 夏のニュージーランドの海。潮風が吹き込む食卓での朝食。埠頭の風景。フェリー。
二人の女性のどこかしら無計画的な、純粋で自由な学生生活。美しい名詞と、流れるようなつながりのいい文章。


 色情症のA子と、放浪癖のB子。二人はどのように出会って、どう生きてきたのか。
物語は彼女らがそういう嗜癖を持つに至った原因をかすめながら走っていく。


 精神的な帰り場所を失ったB子は放蕩癖へ、そして、
結ばれえない相手への思いに狂わされ続けているA子は色情症へと至っている。
それを知ってA子を救おうとした男は、自分にはA子を救えないことを知って死んでしまう。


 そんな境遇を生きてきたA子の下に、
かつてB子が出会ったC子からB子宛の電話が入る。C子は恐らく、何かしらA子やB子に似た困難を
抱えている。そしてB子はかつてC子を助けて別れる際に何かしら寂しさのような未練を感じているが
まるでC子からの連絡を察するかのように消えてしまう。
A子は自分がB子の代わりにC子と理解し合えるのか確信を持てず、子供をあやすかのような言葉をかけることしかできない。


 A子はC子が求めているB子の代わりになることができず、B子が求めているC子の代わりにも
なることはできない。それはどこかしら、色情症のA子が様々な男性と交わっても、
誰も彼女が本当に望んでいた叔父の代わりにはなり得なかったことと
不思議な相似形を成しているかのように思えた。


 A子を救えずに命を絶ったサトシに訪れたものと、B子を求めるC子に応じるA子の心に去来しているものは
どこかしら似た無力感のように思える。それは、相手が失った何かの”代わり”になってあげることができない
という無力感のようなものだろうと思う。


 どれだけ想いが強くても結婚できない叔父、放蕩癖故に行方が分からぬB子、
そしてどれだけ関係を深めてもサトシではなくその向こう側に別人をみているA子。
誰も、本当に求められている相手の代わりになってあげることはできない。
そしてそれは、誰かの代わりになって相手を救ってあげることができないという事かもしれない。


 何とも言えない無常感が浮き彫りになっている。