品質不正

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 相次ぐ日本メーカーの品質不正の件、どう思うだろうか。

 ガバナンスだコスト削減のせいだ、などと書かれているが、いまいちピンとこない。もっとピンとくる説明は、たった二つの要素を軸にすれば見通しがつく。

 

 二つの要素というのは”本音とタテマエ”、そして”机上の空論”である。

 

 どれほど高度な品質要件があったとしても、品質目標を据えさえすれば現場から品質の高いものがあがってくるかというと、そんなロマンチックなことは起こりえません。品質目標というのは、実現手段とセットで導入される必要がある。テストに例えて考えればわかりやすいかもしれない。95点以上を採ろうという目標をとなえるときには、実現手段としての学習カリキュラムが導入され、スケジュール上の予定と実績がマイルストーンごとの振り返りで差異を洗い出されなければならない。そして洗い出された課題をフィードバックとして、目標が実現可能な現実的な修正案を日々調整しつづけなければならない。ーー この実現手段の部分が、現場に導入されないまま95点以上とにかくとれという目標だけを与えられているのではないだろうか。

 

 品質要件というのは、メーカーでいえば、見た目が出来上がることを最優先としてその次に優先される要件だと想像される。現場は組み上げることに注力し、それを高速化することで残業を減らして帰ろうとする。品質の保証をやりつづけると、残業が増える。完成品の大半が、産廃になって無に帰する。やりなおしも起き、場合によっては誰かが怒鳴られ、部署の問題が浮き彫りになって争いがおきるかもしれない、と思われてもいるかもしれない。なによりも面倒なのだ。コンセンサスを取りながら身を切り先々のためにコミュ力を発揮してあえて困難な道を選ぶ人間でなければ、実はむずかしい。だがそれは品質目標を立てるだけの事務方の側からは、忘れられているかもしれない。「おれが若いころはもっと汗をかいていた、体をはっていた、複雑骨折した」みたいなよくわからないことを言って、若者たちにも「言われる前になんとかしろ」としか思っていないわけである。その乖離で、現場は検査結果を偽装して上にあげ、上は結果だけみてああOKだったのかと思って納品してしまうということになってしまうのだ。

 

 日本というのは実は一見、ちゃんとしているように見えるが一方でははちゃめちゃな不正があたりまえのように横行しまくっている社会である。学生はレポートや卒論を当たり前のようにコピペし、企業では検査票の数字がつくりかえられ、原因調査の報告書は事実をもとにしたすばらしいフィクションに満ち満ちていく。日本という社会そのものが、そとからみたときと中身とか食い違う、巨大な仮想現実であるかのようだ。

 

 これらすべてのことが、実は本音とタテマエの乖離に端を発している。タテマエ上は高品質ということになっているが、本当はそんなに丁寧に作る余裕がない、ということであろう。検査票はマーケティングの材料にすぎず、摩訶不思議検査合格のラベルが張られて値段がつけかわっていく。どうしてこうなっているのだろうか。タテマエを真に受けて本気で品質要件をクリアしようと努力する後発の企業に参入障壁を立てて既得権益を守るためだろうか? いやそうではない。何も考えていなくても、分業体制のなかに閉じこもってそれぞれの都合だけを優先させて手を抜いていけば、どのような社会のどのような組織も同じように腐敗する。私はこれが現実だと思う。自然状態だと思う。むしろそうなっていることのほうが当たり前で、世の中がその当たり前の姿をしていることに今さら驚く人々のほうが、ナイーブすぎて世の中を知らなすぎて怖く思える。一番怖いのは、ひどいじゃないかと言っている自分自身が、同じ穴の狢であるにもかかわらず自覚できていないという、支離滅裂な精神状態にあったりすることが怖い。

 

 世の中には本音とタテマエがあるということは理解しなければならないし、それとうまく付き合っていかなければならない。そうでなければ、あえてベタに高品質を目指してすらうまくいかないのである。

 そのことを理解しないまま品質不正がひどいぞ、自分たちは絶対にしません、あいつらは悪だ素朴にいう人がいたら、実は品質不正というのはまさにそういう意識の人たちが起こしている犯罪だということを思わずにはいられない。そしてこれこそが品質不正の本質で、品質不正が浮き彫りにしているのはむしろ企業よりも我々の社会のレベルが低まっている現実なのではないだろうかと思わずにはいられない。