若きエース氏

 かの天才氏のことは若きエース氏、と呼ぼう。
 若きエース氏が途方もない知性をもっていることを私は一瞬で察したが、氏はその情熱的な議論のなかでふと不満を口にすることもあった。もっとも彼は、不満だけを口にする行為に軽蔑的で、しかし同時に、自分は解決のための活動を組織するなどそのことを口にしても咎めるものがいないであろうだけの事はやってきたと自他共に自負してもいた。
 だが不満を口にするというのは咎められる行為をかもしれない、という前提が気になって、不平不満に気がつくということ自体が、あるべき姿をイメージできていると意味でにおいて尊い才能なのではないかと言ってみた。ただ、その疑問は自分の考えとは一貫しない単なるツッコミの為の思いつきにすぎない。
 何々をすると許されないかもしれない、何々をすると、赫々思われるかもしれない、そう思うからやらないだけで本来的にはそのような動機があってしかし禁じているのだという状況があるのだとしたら、私が思うに、その行為をとってもとらなくてももはや何の意味もない。行為にもし罪があるのなら、動機を持つこと自体に罪があるのだろう。善人というのは、動機をもたない人間であるほかないのではないだろうか。
 悪しき動機を持たない人間などいない、どのような人間にも負の感情がある、ならば実際に罪を犯さなかったとしてもすべての者に罪があるのか。現に負の感情を抱いただけで人は自ら健康を損ねて転落することすらある。そうかもしれないが、しかしそのような動機を持たない心境というものは実際にあるようにも思われる。絶えず完全燃焼して、なんの余韻も未練もない日々を送ることができる生き方というものは、空想の中には存在しているように思われる。そして私のような汚れた人間からみると、氏はそういう真っ白な心境にやや近いところで輝いている星であるように思えて、だからこそ氏がそのような言葉をつかったことが妙に興味深かった。
 さきほどのエントリで、エレベストで力尽きてしまう人はみな、途中で疑問を抱いた人なのだという話を引用した。
 疑問を抱かなかったものだけが、先に進めるのだ。


 不平不満を抱くのは才能なのではないかという私の突っ込みには続きがあった。一番まずいのは、理想をなにももたず、ひどい状況にさらされても何も気づかずに猛進してしまう状況だ。それに対してエース氏は、宗教のような、と付け加えた。
 何も疑問を抱かずにまい進する人々は、しかしエベレストには登れるのかもしれない。
 私にはわからない。ひどい状況から理想的な状況に至るために、より良い状況に向けて脱出シャトルに乗る人々は、その後、エベレストよりも高い空に飛びあがることになるのかどうか、私にはまだわからないのだ。

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