「億男」みた

 「億男」という作品の予告をみてから、ずっと私はこの作品について内容を想像しつづけていた。きっと、マネーで買えないプライスレスだとか、お金で買えない幸せであるとか使い古された価値観を訴える作品なのだろうと思っていた。

 あるいは逆に、金もうけの秘訣を教えてほしいという期待を抱く人もいるかもしれない。お金の本質が分かれば、お金を儲けることができるかもしれない……?

 

www.youtube.com

 

 かくいうこの作品は、成金を描く物語ではない。金を稼ぐ人、金を守る人、金を遊ぶ人。いろいろなタイプのお金狂いが登場をする。おそらく人々はその登場人物どれかの価値観だけを想定している。だがこの作品は、そういう意味ではいろんな価値観が登場してどれかが正しいという風な短絡に甘んじることはない、ストイックな作品だった。

 

 主人公の親友は、最初バブリーな成金として登場するも、本質的なストイックさが理解されていく。その親友に対する”目から鱗”は、作品に対する”目から鱗”でもある。

 

 お金というのは、紙にすぎない。それは望めば望むほど価値があがり、諦めれば紙切れにもどる。それは言語そのものにもにている。言語は意味を現しているかもしれないが、本質的にはただの線や音だ。お金が紙切れなのと同じように言葉は線や音である。言葉が線や音でなくなるためには、同じ意味を信じる相手が必要で、その相手との間で意味は共有される。同じようにお金も、紙切れに価値を認める二人の当事者の間の”信じ方”に基礎づけられている。というなことを思った。

 

 自分の期待をあきらかに超えていた事をひとつあげたい。自分の中では今までは次のような偏見があった。”拝金主義は金を儲けている人たちが取りつかれた主義だ”という偏見である。しかしそれは、拝金主義の本質だろうか?

 作中で主人公が「変わった」と言われ離婚につながっていく事件はそれとは違う本当の拝金主義の悲劇を描いている。

 主人公が変わったのは、3億円を得たことによってではなかった。借金による生活苦で娘のバレエ教室の15万円を渋ったときにすでに変わっていたのだ。借金苦の中での3億円はすべてを解決できる鍵のように思えたかもしれない。彼がそう思うのは、彼がもう「変わって」しまっていたからなのだ。拝金主義の本質はそこにあると思う。お金がある人が拝金主義になるのではなく、実はお金がないから拝金主義にかられるのである。

 ホリエモンなりZOZOTOWNの社長と、借金苦の主人公、前者が拝金主義者で、後者は違うと思い込んでいた。それはなぜなのだろう。人はもっと、お金について見つめなおさなければならないことがあるのかもしれない。