人生というものは困ったものである

 ふと気がついたとき、そこは自由の砂漠であった。追い求めた自由は、それ自体は砂丘のようにつかみどころがない。風は砂漠に蜃気楼のような夢を立ち上げてはそれを霞のように消し去ってしまう。
 かつて宮台真司さんの「終わりなき日常を生きろ」を読んだ後のような、奇妙な感覚が胸に去来している。


 日々は単なる繰り返しではない。それは昨日が今日を定義し、今日が明日を再定義するような再帰構造を成す。その繰り返しには無限の可能性が広がっているはずだ。だが、同時に、絶対に到達しない不可能性がどの程度の密度で存在するかもまた、同時に色濃くなっていくだろう。未来は見えないようでいて、実はありそうもない未来がなにかということはハッキリと分かっている分、可能性の無限性は揺らいでいる。


 モンスターを飲んだ私は、焦りを感じている。そうその焦りは実存的な焦りではない。成分表示をみれば解明できる類のものである。不安がある。ゴールがないという不安だ。中間地点は無数にあった。チェックポイントがカレンダーに沢山あった。だが、それらはもうほとんど残っていない。カレンダーはまだ始まったばかりだ。先の方に、自由の砂漠が広がっている。それが不安を生み出している。


 この先に自分は、どうなっていくのだろう。現状維持でいいのだと頭では思う。だが、今の状態のまま年老いていくことが幸せなのかどうか、それで満たされるのかどうか。物足りなさを感じないのかどうか。でもかつてよりはずいぶん自分はマシな日々を送っている。ならまた転落と這い上がりを繰り返していれば、悩まずに済むのかどうか。それもまた怪しい。


 抜け出すことのできない日常には外側が存在しない。その状況を耐えることのできない超越系と呼ばれるメンタリティが存在すると宮台真司さんはかつて言った。そのメンタリティは現状維持に苦しみを覚え、非日常の中に、”ここではないどこか”を絶えず求める。カタストロフィも救済もない、日常の繰り返しを耐えられるメンタリティを、女子高生たちは持っている、とブルセラ社会学者と言われた彼は言った。


 一発逆転はない。自分は永遠にちっぽけな存在のままだ。その感覚を受け入れて耐える。反抗心を捨てる。そんなことが自分にできるだろうか。年をとっても一向に角がとれない欲深さが、自分を苦しめていた。