春先に思われること

 消極的なやる気、ということについて最近考えた事がある。
 モチベーションが絶えず120%、みなぎる元気で情熱が止まらない、というような人は確かにいると思っているが、そういう人はたぶん体力に恵まれていて、体を鍛えているかなにかしているのだろう。私はそこまで体力に恵まれていない為か、やる気が120%になることは年に数回もない。そういう自分のような人間は、やる気のでることだけをやっていたとしても、妙なこだわりがでて周囲と衝突したり、結局長続きしないということに陥るのがオチである。


 大切なのは、ポジティブな時にどうするかではなく、ネガティブな時に、持久できる、耐久できるかということなのではないだろうか。やる気がゼロに達してもなお乱れず動きを保てるかどうかではないだろうか。そういうことは、趣味の世界ではなかなか難しい。なぜなら趣味は誰の為にやっているのでもなく、自分の為にやっていればいいだけのはずだからである。自分のストレス発散や、快感や悦びが、趣味の世界では最大の目的だろう。そういう目的にむかうやる気がゼロになってもまだストレスを発散しつづけなければならないなどということはありそうもない。


 だが仕事はそうはいかない。今日はやる気がないので店を閉めますという店にはいかない。24時間365日、開いているコンビニがある時代だ。昔、就活を迎える時期に読んだことを思い出す。宮台真司さんがブログで書いていたことで、そこでは仕事での自己実現と、消費での自己実現というものが対比されていた。高い収入を得て、良いものを買って身にまとうとか楽しむというのは消費での自己実現だ。対して、スポーツ選手であるとか、芸術家というのは、仕事での自己実現だ。宮台氏は、後者の生き方を勝ち組であり、高い収入を得るためにやりたくもないことをするのが負け組であると言っていた。


 ところが実際のところ、仕事での自己実現を目指した人たちは、やりがいを搾取されつつあるように思える。人が憧れるやりがいに満ちた仕事は、徐々に対価がゼロ円に近づいてほとんどボランティア活動に近づいていく。クラウドファンディングかなにか、これまた無償の奉仕のようなものでしか支えきれなくなりつつある一方、公務員であるとか、エンジニアであるとか、もしかするとやりがいがゼロに近いかもしれないが手堅い仕事を目指す人が増えているように思える。


 であるとすればここからの問題は、そんなやる気が起こらないことを、どうやってやっていけるのかということになるだろう。そこで、骨折り損のくたびれ儲けとはいわないまでも、つらい労働に耐えていけるために必要な、サラリーマン哲学のようなものをどうやって構築しうるか。それこそが「消極的なやる気」の問題だと考えられるのではないか。


 消極的なやる気、と私が言っているものは何か。具体的な例でいえばこういうことである。ほとんどの学生たちは自分が東大に入れないことに気づいている。気づいているのに受験勉強を続けるのはなぜか。テストで赤点を取ると恥ずかしい思いをするから、ではないだろうか。怒られ、馬鹿にされ、自分の言っている事が間違っていると上から目線で言われてしまうのが嫌だからではないだろうか。そう思って必死で頑張る。そこにはポジティブで明るい笑顔はない。むしろ必死で死に物狂いの辛さしかない。だが大勢がそれに耐える中で、強くなって行ける。


 それだけでは、ギリギリ怒られない程度の及第点しか目指せない。だが、それが自己実現と結びついていないなら、及第点で、十分ではないか。得られた退化で、それこそ消費でリア充を目指せばいいではないか。最近ではなんでもかんでも結局はお金がないと解決できない。飲み屋ではないが、気前がよければ、コミュニケーションさえ手に入る。案外、忍耐力なり我慢強さみたいなものを磨いて、ストレスは消費でガンガン解決しながら体力を貯めていくのがいいのではないか。そんな風に、思った春先であった。