ある女性プログラマーとひどい男の話


 哲夫がその女性プログラマーと出会ったのは、27歳の頃だった。ある外資コンサルティングファームの戦略コンサルとしてメーカーに派遣されていた哲夫は、となりにある空席をいいように使える身分に満足していたが、ある日突然、そこに新人が中途で入った為に窮屈を感じ始める。それが美佳だった。
 高校卒業後すぐにプログラマーとして活躍しはじめたという美佳は、その割にはひどく頼りない新人のように思えて、哲夫は努めて優しく接するように気を遣わなければならなかった。非常にスキルが高いと聞かされていたが、周囲には誰もサポート役はいない。期待されたパフォーマンスがでず、となりにいた自分が非協力的なせいだ、などと言われると面倒くさいと哲夫は神経をとがらせたのだ。給湯室や、トイレ、自販機、コピー機、社員食堂などの社内環境を案内した後、自分がしっている範囲内での業務フローを手短に伝える。この場所でスタートする上で、躓きやすい事柄などを。それらすべてを伝え終わった後、哲夫は自分なりに役目を終えた、と感じてもとのように殻にこもった一匹狼に戻る……。はずだった。


 昼食時に美佳は突然、哲夫に向かってプライベートな話をしはじめた。わるいけど興味ない、と哲夫は思ったが、そう口にするとひどい男だと思われるかもしれず、話を聞いて、相槌を打ち、自らも差し支えの無い話をした。
「実は自分には、ガンになった母親がいるんです」
 と彼女は言う。
「ああそうですか、それは大変です」と哲夫は言う。
「今はもう、完治したんですが、今は自分が一家の稼ぎ頭です」
「お父さんはどうしたんですか?」
「まだ自分が幼いころに、離婚してます」
「お母様は一緒に住んでおられるんですか」
「いいえ、自分が出稼ぎに来てます。母親は群馬にいます。お金がなくて、ケータイもパソコンも壊れたままで……」
 それだと仕事も大変だろうな、と哲夫は思った。哲夫は最初、美佳にかなり警戒心を持っていたが、その話を聞くと急に同情してしまったのかもしれない。


 出先での昼食からオフィスへ戻る道すがら、ビルに併設されたショッピングモールを通った。
「ここはいいですよね。服とかも、8000円とかで安いです。映画とかは、お好きですか?」


 と、美佳がいったことを、哲夫はその晩ずっと思い返す。彼女はかなりお金に困っている。幸い自分はお金には不自由していない。あのセリフには何か意図があったのだろうか? と哲夫は思った。
 ここで何もしなければ、自分はひどい男だと自分で自分を責め続けることになるかもしれない。哲夫はそう思った。


 哲夫は翌日から美佳の世話をやくようになった。自分なりに、彼女に気に入られようとしたのだ。そして、ゆくゆくは自然な形でデートに誘い、そして服を買ってあげたり、映画を観たり、そしてケータイやパソコンも直して上げなければと、彼は思っていたのだ。


 ある日、美佳が遅くまで残業で残った。哲夫は気になったものの、疲れたのでそのまま先に帰った。のちのミーティングで、その晩美佳が若く健康的な男性上司と二人で朝まで徹夜したことを知った。哲夫は自分の心の中に、固いしこりのようなものがある事を感じた。その晩二人の間に何があったのだろう。上司は言う。「あんなに楽しそうな美佳の顔をみたのは初めてだった」そうか、よかったなと哲夫は思う。だが顔がこわばり、瞼が震えた。自分は一体、何を思っていたのだろう。彼女がただお金に不自由していることだけが気になるのであれば、あの若い上司が彼女を救えるだろう、自分よりも。哲夫は仕事に打ち込んだ。だが美佳の声が聞こえるたびに、集中力が途切れて、誰かに顔をみられているようで、表情を隠した。自分は一体、どうなってしまったのだろうと哲夫は思った。それから哲夫は、露骨に美佳を無視するようになった。少なくとも、無視しているフリをしつづけるようになった。そのくせ、耳は彼女の声だけに耳をすましていたのである。