意思の弱さと罪について

 むかし浄土真宗について調べていたとき、悪人正機なる言葉にめぐりあった。
 それは、悪人こそ救われるべきだ、という考え方だそうである。ビックリ仰天ではないだろうか。善人というものがもしいるなら、その人はもう救われている。救いを必要としているのは、悪人なのだという。


 心に一転の曇りもないならば、その人は善人である。サイコパスでもない限り、人は誰もが自分の行いが正義なのか悪なのか確信を持たない。自分たちにとっては正義でも、社会にとって悪ということはありうる。例えばテロリストたちは実は正義を掲げて虐殺を行ってきたのだ。
 地球環境を守るためには人類を抹殺すべきだという考えが正義なのか、無惨に命を落とす難民たちの住環境を守るために森林や草原を埋め立てるべきだという考えが正義なのか、いくらでも議論することはできる。だが、身の丈に合わず何様のつもりなのかという気もする。


 何が正しいことなのかを人は延々議論してきたが、まだはっきりとはしていないのではないか。だから法律がいまだに作られるのではなかったか。そのための議論をかわりにやってくれる人たちを選挙で選んで、である。


 何が正しいことなのか声高に叫ぶことができる人々が不思議に見える。その自信はどこから沸いてくるのだろう。自分はまだなにも知らず、信じていることも実は間違っているかもしれない。そう仮定しながら、常に土台から確かめ直す、考え続ける。そうしなければならないと思う私は、信じる正義をもたないという意味で、悪人なのかもしれない。


 道をはずした悪人であるがゆえに、思い悩む。そこにある罪とは、意思の弱さなのかもしれない。