勉強や読書だけでは、いいものを書くことができない理由

 思うに、かける文章というのは、その人が社会から得ている自信や肯定感といったものに、非常に左右されるきがする。
 もっと極端なことをいうと、幸せな結末の物語をかくためにはその人自身が幸せについてそれなりのことを知って経験している必要がある。でなければうすっぺらな嘘くさい作り話しかかけない。

 だからこそクリエイターは、それなりに心が恵まれた状況、たとえば将来の不安のない状況を保証されていないといい作品を作り続けられず病んだ不幸な物語しかひりだすことができなくなってしまう。

 もちろんそういう作品にも魅力をかんじるけれど、多くの幸せな人たちにとってその不幸な共感というものは、心にとどかないものなのだということもたしかだというきがする。

 ディズニーアニメとかのようなレベルで世界中に堂々と展開できる作風を産み出すためには、そこそこの生活レベルぐらいはしていないといけないのでは、とか、いろいろなものを楽しんで楽しみの感受性を鍛えてアウトプットにそれを活かせなければならないのではないか、とかいうようなことを思う。

 クラウドソーシングとかクラウドファンディングとかシャアハウスとかカーシェアとかエアビーとかなにかこう最近は、資産やリソース、などなどをシェアする風潮が高まってきているけれど、助け合って安心して生きていける疑似家族みたいなものが、夢をおいかける人たちの支えになっていくようなきがする。

 不安で不幸だと人が思うとき、それは過去よりも将来の希望にむけて自分を責めている。今できないことのいいわけのために過去を呼び起こしている、ということもできる。でも、そのままでも生きていける。将来には不安はない。そしてすべてはシェアされているだけで、見返りはいらない。そうなっていれば、もう不幸な結末を描くことはなくなるかもしれない。あるいはそうではないかもしれない。いずれにしても心のなかに描かれる精神世界がもっともっと明るいものになれば、ぼくたちは大勢の人に喜ばれる明るい物語を語れるようにもなれるだろう。