銀河英雄伝説

 銀河英雄伝説がやっていたので昼飯を食べながら観ていた。この銀河英雄伝説というのはむかしからある作品らしく
ときどき漫画雑誌とかで名前が広告かなにかででていたりしていたような気がしないでもないのだが、私はといえば
まったくこの作品に接点がなく、ほとんど知らない。むかしのシリーズのDVDか漫画がでるというようなCMがあり、
そこで出てきた少女漫画風の絵柄にも、まったく見覚えはない。

 そこでかなり検討外れな感想だと知りつつも、以下のようなことを思ったのである。
 この銀河英雄伝説のいまやっている作品は、かなり重厚というか王道をいっていることへの自意識に満ちた作風をやっている。
それはたしかに、大河ドラマを意識したかのような作風だ。だからあえてこの両者を重ね合わせてみると、そこに盲点のようなものが
残ることにきがつく。実は銀河英雄伝説という作品は、日本の表現の世界がどうしても描くことを禁じられてきた、
あの日本の近代戦争の時代を、本当はテーマにしているのではないか。そしてまた、そのことをかたくなに自覚し、そのことを
打ち消して抑圧するために要請されているのが、「海戦ではなく宇宙戦争」「日本人ではなく金髪碧眼の西洋人」のような
屈折した文法だったのではないだろうか。

 日本においては、ポリティカルコレクトネスが、モラルや倫理以上に、イメージ戦略として産業界的に重視されてきた結果、
たとえば太平洋戦争に関わる表現が抑圧され、敬遠されてきた。日本赤軍共産主義にかかわる表現も忌み嫌われてきた。
この政治的な抑圧が屈折した表現としての、共産主義的なメッセージに満ちたガンダムとか、その手の屈折した芸術的昇華を生んでいる
のではないかという気がする。

 クリエイターというのは、自分自身ではポリティカルコレクトネスをもっているつもりでも、浮き世の風にさらされない活動を
つづけていたりするのか支持者やファンや囲みに囲まれていて客観的な指摘ができる他者に鈍感なのか、政治的な極論にしらずしらず
染まっている自身に対する無自覚を抱えていることがおおい気がする。

 ただそれ自体は、むしろ生産性の動力源となる可能性さえある狂気であり、うまく表現を差し替えることで(海戦を宇宙戦にかえるようなことで)
豊穣なファンタジー世界を産み出す巨大なロマン主義の鍵を握っているかもしれない。

 表現としてはポリティカルなコレクトネスをキープしつつも、内面においては、むしろ退屈なコレクトネスを逸脱した狂気を
孕みつつそれを手なずけ飼い慣らすことができているべきなのではないだろうか。