責任の大きさと裁量の度合い

 むかし、仕事のストレスというものを定量化した研究の中で、
ストレスの大きい仕事の定義を、裁量の度合いが小さく責任の度合いが大きい仕事という風に扱っていた。
逆に言えば、ストレスの小さい仕事というのは、裁量の度合いが大きくて責任が小さい仕事だと言えるかもしれない。
どのようなやり方をしてもいいし、失敗しても問題はない。


 大企業病とよばれて忌み嫌われているものがあるけれど、自分はずっとそれに染まってきた感がある。
何もかもが決裁筋のコンセンサスを必要とするから、自分の意思があっても、ほとんど行動できない。
かかる労力を定量化できたとしたら、その労力は得られる結果にみあわなくなってしまっている。そうなるのは
円滑なコミュニケーションを暖めていないからだと言われてしまえばそれまでである。
縁を繋いでいないから、周囲の温度感を感じられていないから、体感の悪い歯切れのわるい答えをうっかり落としてしまうのか?
横にらみして水平展開か? もうこりごりという感じがある。


 一緒にやっている、仲間だと思っている、そういう感覚がない。自分で決断できているという感覚がなく、流されているという
感覚があるからどうなっていくのか不安なのだろう。目的を意識しすぎればコンセンサスがなおざりになり、
コンセンサスを意識しすぎれば、目的から遠い無駄がうまれる。
裁量の度合いも責任も、実は自分でコントロールできるのかもしれない。勝手にやったと言われつつ結果をだすことはできるかもしれない
何を決めてほしいのかわからないといわれつつもまわりを巻き込んでいくこともできるのかもしれない。
どちらにも気持ちわるい感じがある。うまくいっても、体感はわるい。それがもし自分だけなのであれば、それでもいいかもしれない。


 人間というのは、どれだけ礼節をつくしているつもりだとしても気にくわない人間を無意識に不快にさせてしまうものなのかもしれない。
理屈や議論をしているつもりでも、ほんとうの問題はそこではなく、生理的に嫌い、というのがすべての原因なのではないか。
抽象的な課題であれ具体的な課題であれ、それらをすべて解決しても、生理的な問題が解決されなければ、難癖はつづくのではないか。
そういう個人的な問題をどのように表現するかという問題を、抽象的にかたづける表現力というものがあって、
それがよくいわれているあれなのであるということを私は感じ始めている。


 いったいなにが生理的にだめなのだろう。身だしなみなのか、言葉遣いなのか、態度なのか、性格なのか。なんであれ、
そういうことに気をつけるべきなのだろうし、自覚的であるべきなのかもしれない。