三ノ宮トヲルと琴吹綾芽について

 花粉症の症状を自覚し始めてからもう10年ほどになる。あの頃私は、ちょうど二年ほど続いていた喫煙の習慣に一区切りつけたころだった。当時勤めていたホストクラブの付き合いで、同伴の女性のメンソールの香りにくしゃみがとまらなくなっていたので、単に禁煙のせいだなどと最初は思いこんだものだった。

 マスクをつけると、耳の裏が痛くなるのが嫌だった。そうならないことを謳っているマスクほど、痛くなるように思えた。私は小顔で知られているが、大きいサイズのマスクを買うようになった。大きいマスクをつけていると、頬のあたりから息が漏れてくる。それは生暖かく湿度の高い息だ。メガネをかけていれば、レンズが曇るだろう。私は視力が両方2.0で、かけているメガネは度がはいっていない。これは映画館の帰り道にメガネ屋のショーウィンドウで見かけたサングラスのフレームにガラスをはめてもらって作ったものだ。自分自身の殻を脱ぎ捨てて別の生き物になりたかった。そういう思いに、今もしばしば駆られるときがある。遠いどこかで、知らない時間を過ごしていたら、自分はことなる自分に生まれ変われていただろうか?

 

 強い風が吹いた。

 何かが聞こえて後ろを振り返った。そこに、琴吹綾芽はいた。琴吹綾芽? とおれは思う。誰だそいつは、初耳だった。「トヲルくん! 三ノ宮トヲル君……だよね」と綾芽は言った。

 遠いどこかで、知らない時間を過ごしていたら、自分はことなる自分に生まれ変われていただろうか……?

 

 昨晩ふりしきった雨に濡れた路肩は、濡れた桜の花びらに覆われている。そこにひらひらと新たな花びらが風に揺れて落ちてきていた。その花びらの一つが、綾芽の髪にかかる。おれはそっと傍に歩み寄ると、人差し指と親指の腹でその花びらをそっとつまもうとする。綾芽は目を伏せてそっと微笑んでうなづく。急に、指が震えて動かなくなる。だめだ、おれじゃだめだ、と思う。手を引っ込める。彼女が顔をあげるのがわかる。俺は目を合わせられず、そのまま逃げ去ろうとする。遠いどこかで、知らない時間を過ごしていても、おれは、おれには何もできないだろう、と思う。

 

「待ってよ」と綾芽が言う。綾芽ははっと思い立って街の案内板に向かってかけていく。「資料館が、あるよ。一緒にいってみようよ」

 微笑んでいる彼女のまっすぐな眼差しを、見返すことができない。それはおれじゃない誰か、もっと素敵な人とに向かって言ったらいい、そう心の中でつぶやいてしまう。おれはかぶりを振って、「もういかなければ」と言った。彼女は、苦笑いした。「資料館」といいながら袖を引っ張る。

 

 大きな犬が出てきて、喋った。

「資料館は、くそだあ。つまんねーぞ。くそつまんねーぞ。古いぞだせえぞ。くせーよ。めんどくせーよ」

 そして犬はそっと立ち去る。

 

 だが、このまま彼女を置き去りに、逃げ去るべきとも思えなかった。いくだけ言ってみよう。どうせ犬のいうとおりだ......。

 資料館のドアを開けると、なぜかそこは自宅の部屋だった。綾芽は服を脱ぎ捨て、手術台の上に身体を横たえた。おれは執刀医となり、彼女の裸体にヘッドライトを当てた。身体をメスで切り開くと、彼女は悲鳴を上げて叫んだ。傍らにいたアシスタントは息が荒くなり、自分の股間をまさぐりはじめた。アシスタントの頬をはたくと、その顔はおれに似ていた。ふとみると手術台の上にいたはずの綾芽がいなかった。おれは思い違いをしていたのかもしれない。胸騒ぎがして、ドアを開けた。そして思わず、走った。

 

 大きな犬が出てきた。「東京ドームを一日だけおさえるのは無理だ。顔が利く興行師たちも三日間でないと無理だといっている。それに、あいつは見ない顔だ。そういうやつは飛ぶから嫌だ。いつもジャンプしやがるんだ」

 ドアを抜けると、そこは資料館の出口だった。

先を歩ているのは綾芽だった。彼女は振り返り「資料館どうだった?」と言った。

「ああ、資料館、資料館だった」

「どうしたの? 顔色」

「......」

 その夜、二人は滅茶苦茶セックスした。